子どもの成長はめざましい、ことは十分わかってるし、現地に行ったら外国語は問題なくしゃべれるでしょう、とよくいわれます。
が、そこにはちゃんと親と子の努力があることを忘れてはいけないと思う。
自然に、知らぬ間に、はなかなか難しい。
どの程度を求めるかによるけれど。
言語の4技能(聞く、読む、かく、話す)は整えてあげたいものです。
自分と他人。
他者との出会いは常。
他者とは決して遠いところにあるのではなく、一歩家からでたらそこは他者の集まりに自分を存在させること。
新しい環境を受け入れ、自分たちの文化を継承することはどこにいても〝家族〟という文化を一歩でてしまえば文化差の大小はあれど、同じようなプロセスだと思っている。
何がいいたいかというと、
小さい頃よくいわれた「よそはよそ、うちはうち」。
いつぞやからみんなが「同じ(ような)もの」を手に入れられるようになり。
基準がどんどん「うち」から「そとへ」変わっていったように感じ
知らないうちに不特定の多数派にいることがあたりまえになっていて、そして今、コロナ、ワクチン、戦争………に関して、選択と決断を自分に突きつけられたときにものすごくもろさ、弱さみたいなものを感じずにはいられないんだと思う。
他者を共存していく上で基準を揃えること、それはその集団に属するために必要とされる条件のようなもの。
改めて自分にとって大切なモノ、譲れない思いなんかは「うちの基準」でいいのだ、と一周回って、そして強く思う今日この頃。